2011年8月19日金曜日

2011.8.19 言葉の力ということ

言葉の力ということ
(石坐神山「播磨國風土記」 姫路市香寺町奥須加院)







 前回の便りに、昆愛海ちゃんのお母さんへの手紙と、その言葉に触発され行動を起こそうと決意したニートの青年のことを書きました。私はこの記事に書かれた出来事とその記事に触発されたニートの青年の決意に、言葉の力というものを強く感じました。言葉が人の心を救う力という意味での言葉の力です。少しその辺りを述べてみたいと思います。


 一つ目は、愛海ちゃんが生み出した言葉が自分自身の心を救ったということについてです。愛海ちゃんが4才になっていて、多分お母さんにひらがなを教えてもらっていたのでしょう。ひらがなをたどたどしく書けるようになっていたことが、彼女を救ったのだと思うのです。本当にひらがなが書けるようになっていてよかったと思いました。愛海ちゃんを救ったのだと思いました。私たちは整理のつかない体験をすると言葉が出ません。その間、じっと沈黙するしかありません。この沈黙は恐ろしいものではありますが、非常に大切なことで心を成長させるには価値のある沈黙を作り出すことが大切です。現代はこの沈黙を恐れて掻き消すように、おしゃべりをしたり、メールを打ったり、騒々しい音や言葉が氾濫しているのが現状ではないかと思います。


 愛美ちゃんが津波に襲われて奇跡的に助かって、4日間は地区の親戚の家で過ごしていました。1週間後におばあちゃんに会いました。そのときの写真が掲載されていました。とてもうれしそうにおばあちゃんに駆け寄る瞬間の写真でした。記事を書いた立石カメラマンが愛美ちゃんと初めて出会ったのはその時です。それから彼は時々愛美ちゃんに会いに行き一緒に遊んでいます。


 11日後の3月22日にトランプをしていた時に突然、ママに手紙を書くと言い出しました。恐ろしい体験をしておばあちゃんに会えて、ほんとに少しだけ気持ちが和らいだ、あるいは余裕ができた時に、手紙を書こうと思ったのだろうと思います。


 1時間をかけて、知らないひらがなを調べながら、やっとのことで「ままへ。いきているといいね。おげんきですか」と書いた。その直後疲れてしまって、その文字を書いた大学ノートに頬をのせて眠ってしまった。それが新聞に掲載された写真でした。この文字が11日間の沈黙の後の愛美ちゃんの叫びだと思いました。お母さんが帰ってこないらしいこと、もう会えないということはうすうす分かっている。しかしその現実を受け入れるには辛すぎる。どうにかしてお母さんに連絡を取りたい。自分がここにいることを知らせたい。そんな気持ちではなかったかと思います。抱え込んだ沈黙に、そして整理のつかない気持ちに輪郭を与えるのが言葉です。その輪郭は自分自身しか作ることはできません。借りてきた言葉ではなく、自分の魂からしぼり出した言葉でないと自分の心は救えないでしょう。私たちは自分の言葉によって心に仮の輪郭を与えて、その輪郭を頼りに自分の心の混沌の中に踏み込んでいこうとします。言葉にできたその時に、一瞬の安堵感があります。だから愛海ちゃんは手紙を書き終えた後、眠り込んだに違いありません。自分の心に対しての言葉の力とはこのようなことだろうと思いました。これまでの11日間の想像を絶する緊張感による疲れと一瞬の安堵感によって。


 このような経緯で生み出された言葉の力と愛海ちゃんの悲劇の重みが、その言葉を読んだニートの青年の心を打ち、彼に行動力を取り戻させたのだろうと思います。これが二つ目の言葉の力です。


 あれから愛海ちゃんの記事がありません。どうしているのでしょうか。少しずつ元気を取り戻してくれればいいと願うばかりです。





















2011年7月22日金曜日

2011.7.22 昆愛海(こん まなみ)ちゃんという女の子



昆愛海(こん まなみ)ちゃんという女の子

写真は沖縄県伊江島の海(2011.6.8 多部制3部修学旅行)





 岩手県宮古市の昆愛海ちゃん(当時4才、5月10日で5才)は、3月31日に「ママの帰りを待っている 入り江を見つめる女児 父の携帯を握りしめ」という読売新聞の記事で取り上げられた女の子です。この記事を書いたのは立石紀和カメラマン。彼は震災から一週間後、津波に襲われた宮古市の手鶏という漁村で愛海ちゃんに出会った。愛海ちゃんは地震の時は保育園にいて、迎えに来たお母さんと自宅に戻った。自宅は高台にあり避難所になっている小学校と隣接していて安全なはずだった。 しかし帰宅した瞬間、30m超える巨大津波が襲ってきて、両親と妹の蒼葉ちゃんと愛海ちゃんは津波の引き潮にさらわれた。愛海ちゃんは背負っていた通園用のリュックが漁に使う網に引っかかったために、一人だけ奇跡的に助かり、同じ地区の親戚宅に引き取られ、孤立状態で4日間を過ごした。一週間後に市内の内陸部に住む祖母の静子さんに会うことが出来た。「表情は沈んでいて、何も話さず、言葉を忘れてしまっている」状態であった。

 そんな時に立石カメラマンは愛海ちゃんに出会った。彼はそれから時々愛海ちゃんに会いに行き、トランプしたり、絵本を読んだり、おやつを食べたりした。3月22日に、いつものようにトランプでババ抜きをしていると、突然ママに手紙を書くと言い出し大学ノートを広げた。愛海ちゃんは色鉛筆で、覚えたばかりのひらがなで一文字一文字ゆっくりと手紙を書き始めた。分からない字があると調べながら、「ままへ。いきているといいですね。おげんきですか」 1時間くらいかけてそこまで書くと、疲れてしまったのか、寝入ってしまった。 その記事には、手紙文が書かれた大学ノートの上に頬をのせて寝入っている愛海ちゃんの写真が付けられた。 愛海ちゃんは、笑顔は少し戻ってきたものの、自宅には近づくのを嫌がる。 変わり果てた入り江を見下ろす時はふと辛そうな表情を見せる。余震の心配があるので、おばあちゃんの静子さんは自分たちの家につれて帰りたいが、愛海ちゃんは「ママが帰ってくるまで、ここで待っている」といって聞かない。「パパから電話がかかってくるかな」と言って、携帯電話が通じない被災地で、電源を入れたままにして握っている。


手紙には続きがある。「おりがみとあやとりと ほんをよんでくれてありがと」お母さんの由香さんは32才。「ぱぱへ。あわびとか うにとか たことか こんぶとか いろんなのお とてね」お父さんの文昭さんは39才。おばあちゃんのお手伝いをしたり、配給所にトイレットペーパーをもらいにいったりと頑張っている。胸のポケットにはいつも旅行に行ったときのママの写真を入れている。「ママかわいいね」時々その写真を見て胸に寄せる。 しかし愛海ちゃんは突然泣き出すこともある。夜は布団の中でおばあちゃんの首にしがみついて寝る。


4月24日には妹の蒼葉(あおば)ちゃんの4才の誕生日を祝った。5月9日からは8キロ程離れた隣町の児童館に通い始めた。朝おばあちゃんに髪をとかしてもらい「早く行きたい」とはしゃいだ。 今でもよい子にしていればみんな帰ってくると愛海ちゃんは信じている。


5月10日に愛海ちゃんは5才になった。

3月31日の記事を見たニートの男性から読売新聞社のサイトに書き込みがあったそうだ。

「愛海ちゃんの記事を読んで、自分が甘えていることに気付きました。仕事を探しに行きます」


 愛海ちゃんには、おばあちゃんやその他いろんな人に支えられながら、時間を十分にかけて少しずつ少しずつ自分の置かれている現実を受け止めていってほしいと心から祈らざるを得ません。



4才の女の子も戦っています。私たち教員は、生徒たちの進路開拓に対して、出来ることとするべきこととやれることをしっかりやりきろうとしています。生徒たちには自分の甘えに対して戦うことを求めたいと思います。そしてご家庭では、決して子ども任せにせずに、親と子が一緒になってしっかりと子どもの進路を考えていただくことを、お願いしておきたいと思います。                         (飾工PTA会報に掲載)


2011年4月8日金曜日

h23.4.8 平成23年度の入学式を終えました。





式 辞


 今年も飾磨工業高等学校に春がやってきました。軽やかで晴れやかな気分を味わえることに感謝したいと思います。


 御来賓の皆様と、新入生の保護者の皆様の祝福をいただき、兵庫県立飾磨工業高等学校平成23年度入学式を行えますことに、心から感謝を申し上げます。


 ただいま入学を許可しました全日制課程200名、多部制課程200名、合計400名の入学生の皆さん、入学おめでとう。本校への入学を心から歓迎します。保護者の皆様には心よりお喜びを申し上げます。


 飾磨工業高校に合格した入学生とその保護者の皆様の、合格者発表の日に喜んでいらっしゃる姿は、私たち職員の脳裏に焼き付いています。しかしその反面、うつむいて静かに帰っていった受験生と保護者の姿を思い浮かべる時、合格を勝ち取った皆さんには、不合格になった人の分まで本校でしっかりと学んでほしいと、強く思います。


 皆様もご存知のとおり、今年の春は残酷な春となってしまいました。東日本大震災が東北地方、関東地方、さらには日本全体に大きな被害と課題を突きつける大変な状況にあります。私たちはできることを確実にやりとげながら、お互いに助け合って、この困難を乗り切らなければなりません。


 さて、宮城県名取市で被災した18歳の沼田裕也君のことを話したいと思います。


 彼は被災直後のテレビで避難所のなかで活躍する高校生ボランティアとして取り上げられていました。そのときに彼は、「家族とはぐれているのですが、父は仕切るのが好きな人なので、どこかの避難所で被災者のために活動していると思います。自分もここで活動をして、家族を探すつもりです。」としっかりとした口調で語っていました。私はそのときの彼の表情と言葉の強さから、家族の安否確認の手がかりはあるのだと思っていたのです。しかし3月27日のwebニュースで、地震の数日後に、祖母と兄の遺体を確認した。両親の安否は不明だと報道されていたのです。彼は最初から、家族の安否確認は難しいと感じていながら、カメラの前では、父はどこかの避難所で被災者のために活動していると言っていたのかもしれません。


 webニュースでは、彼は「覚悟はしている。せめて早く見つけてあげたい。」「悲しむのはいつでもできる。今はそのときじゃない。」と気丈に言っていると書いてありました。避難所では今も進んで救援物資の運搬やごみの分別を手伝っているのです。


 彼が大学に合格したとき、母親は赤飯を炊いてくれた。父親は将来について聞いてきて話をした。家族で大学の合格を祝ってくれたのだと言います。父親には「大学でも頑張るので、体に気をつけて仕事を頑張ってください。」と手紙を書いた。しかしその手紙は、津波に流されてしまって、とうとう渡せず仕舞いだということです。


 沼田君の家族は自分以外のことを優先する家族であった。地震のとき父は自転車で近所に非難を呼びかけに行った。   


 母は向かいの家の様子を見に行った。兄は近所の人を助けに行った。自分は祖母に付き添った。そして津波が来た。


 彼は4月から大学に行く予定でした。しかしそれが無理なら仕事を探さなければならないと語っています。


 皆さんはこの沼田裕也君の話を聞いてどう思いますか。私はまず彼の精神力の強さに感服しながら、次のことを考えました。


 第一に、被災し家族の安否が確認できなくても希望を捨てていない。


 第二に、彼の家族が地域に貢献しようとする家族であったために、彼もそのように育ち、祖母と兄が死に、両親の安否が確認できない状況でも、健気に被災者ボランティアとして避難所で活動をしている。その活動をすることで折れそうな自分を支えている。


 第三に、家族が持っていた奉仕の精神が沼田君の中に見事に生きている。


 さて、飾磨工業高校は、皆さんに、次のようことを期待しています。


 自分を大切にする自尊心と将来への志を持ってほしい。


 仲間や地域の中で活動し貢献する行動力を持ってほしい。


 工業高校の生徒として日本の工業界を背負う技能と技術を身につけてほしい。


 現代の高度技術社会で活躍できる知力と知識を持ってほしい。


 そしてクラスや学校全体に、地域社会に貢献する活動を通じて自分の生き方在り方を考えてほしい。


 ようやく上向きになった日本の景気は、この大震災で足止めを喰らってしまいました。しかし私たちは前に進まなければなりません。だから、皆さんには、自分の夢を実現するための具体的な目標を立ててほしい。大きな目標につながる小さな目標をたくさん立ててほしい。それを実行に移して、一つ一つ達成していってほしい。夢は望むだけでは自分のものにはなりません。目標は、実行に移して達成しなければ目標ではないのです。それは夢のままに過ぎないのです。保護者の皆様には、お子様の目標を達成するために、本校の教育方針をご理解いただき、本校の教育活動にご協力をお願いします。


 最後になりましたが、御来賓の皆様には、御多用にも関わりませず、御臨席賜り、入学式に華を添えていただきましたことに、心よりお礼を申し上げまして、平成二三年度入学式の式辞といたします。
 平成23年 4月8日


   兵庫県立飾磨工業高等学校長


     田中 哲也

2011年2月28日月曜日

2011.2.28 平成22年度卒業式を行いました。



式 辞



 この飾磨の地に、春の気配が日ごとに感じられる今日の良き日に、御来賓の皆様と、保護者の皆様の祝福をいただき、兵庫県立飾磨工業高等学校平成22年度卒業証書授与式を挙行できますことに、心から感謝を申し上げます。


 ただいま卒業証書を授与しました全日制課程196名、多部制課程136名、合計332名の卒業生の皆さん、卒業おめでとう。そしてお子様を育て、支えてこられた保護者の皆様に、心よりお喜びを申し上げます。


 今、世の中には、家族や地域の絆の希薄化とか、若者が将来に希望を持っていないとか、閉塞感が満ちているとか、地球環境が破壊されているとか、私たちを動揺させる事柄が誇張され、私たちの、生きていこうという意思の腰を折る場面が多くあります。確かに今、私たちにとって荷の重い課題があることは事実ですが、必要以上にそれらに煽られて、あきらめたり投げやりになったりすることは大変危険だと思います。このような時には、自分たちの身近なところをしっかりと固めることが大切です。家族や近所の人のネットワークを確かなものにすること、一人一人がやれることや、やるべきことをしっかりとやりきること等、私たちのこれからの暮らしのために展望をもち、地道な行動を継続していくことが重要だと考えています。


皆さんがこれまでにやってきた地域貢献活動を考えてみましょう。ただ理由もなく幼稚園や小学校や福祉施設に行ったわけではないはずです。そこには地域の中で人と人とのネットワークを作ろうとする社会的な意志があります。多くの企業にお世話になったインターンシップにおいても、皆さんが実際の工業現場で技能や技術がどのように活用されているのかを知ることや、学習のモチベーションをあげることが重要なことはもちろんですが、技能・技術の若い継承者である皆さんを、企業と学校が連携をして、社会全体で世界的にも評価の高い日本の技術・技能を継承する若者を育てようとする強い意志が、今の日本にあるということが重要なのです。


私たちは生きる意味や目的を常に考えています。それはとても大切なことですが、一つ忘れてはならないことがあります。それは小さい子どもの快活さと無邪気さです。あの生きようとする本能ともいえる強さこそが、わたしたちにとっても重要だと思うのです。考えすぎることで、その生きようとする強さを忘れてしまうとしたら、それは不幸なことですし、間違っているといっても言い過ぎではないでしょう。


以前、全校集会で読み上げたことがある、志賀直哉の「ナイルの水の一滴」という文章をもう一度読んでみたいと思います。


「人間が出来て、何千年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んでいった。私もその一人として生まれ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年遡っても私はいず、何万年経っても再び生まれては来ないのだ。しかも尚その私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差し支えないのだ。」


今日はこの続編を話したいと思います。「千の風になって」という歌を日本語訳した新井満という芥川賞作家がいます。今読み上げた志賀直哉の「ナイルの水の一滴」という文章に影響を受けて、次のような文章を書きました。


「意味なく生まれてきたわけではない。無数の様々な原因と条件が寄り集まって生まれてきたのだ。つまり生まれる意味があったからこそ、あなたは生まれてきたのだ。そのことを思うと不思議な気分になる。今生きているあなたとは、奇蹟のような存在であるといっても過言ではない。実はあなたの命とは、宇宙大河の一滴のことなのだ。」


今日卒業する皆さんは、そしてここにいる私たちは、奇蹟のような存在なのです。今日卒業する皆さんの前途に困難があったとしても、私たちは奇蹟の命を持っていることを忘れないでほしいと思います。皆さんが今後体験していくことは、何一つとして、皆さんの次のステップに無駄で意味のないことはないのです。どんな辛いことでも、次のステップの礎になるということをしっかり認識して、やけを起こさず、辛抱するところは辛抱をすることが必要です。自分にとっては辛い今の体験でも、ひょっとしたら自分が予想もしていない、いい方向へと自分を導いてくれる契機になるのではないか、そう思えないのは自分が自分の考え方に拘りすぎているからではないのか、もう少し辛抱してみれば、新しい世界が広がるのではないかと考え直して、行動していくことが必要だと思います。それが自分の未来を見つめるということではないのか。体験を自分の次のステップにつなげられるかどうかは、皆さんの心構え次第だということです。


以上のことを卒業生の皆さんに伝え、卒業証書授与式の式辞とします。


私たちの身近なところを大事にして、お互いに支え合って生きていくことが大切だと思います。卒業する皆さんと、そしてご家族の皆様の御発展と御多幸を、切にお祈りいたします。



平成23年2月25日

兵庫県立飾磨工業高等学校校長  田中 哲也